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日本ソロー学会 The Thoreau Society of Japan

■ 2012年度日本ソロー学会全国大会レジュメ 

Posted on 06:39:48

I. 研究発表要旨


1. 近代日本作家のエマソン・ソロー受容


創価大学大学院 博士後期課程3年 藤田 妙子


  R.W.エマソン,H.D.ソローは,近代日本の文人・知識人に大きな影響を与えた。本発表では,キリスト教思想家の内村鑑三と,その弟子で作家の志賀直哉をとりあげる。特に彼らの自然観に着目し,そこにどのようなエマソン的・ソロー的影響がみられるかを探りたい。


  内村鑑三はアメリカ留学時代にその自然観を深め,自然と人間精神の一致という考えを抱くにいたるが,そこにはエマソンからの影響を跡づけることができる。帰国後に発表した『基督信徒の慰』,『代表的日本人』では,その自然観がさらに深まり,自然との一体化を可能にする人間の善性・徳性が前面に打ち出されるようになる。


  一方,志賀直哉は20代の7年間を,師・内村鑑三のもとに親しく通うが,やがて人間の本能を卑しめる宗教に反発して去っていく。同時期,志賀の手帳には「トロー」や「ワルデン」等の記入があり,本能をも讃えるソローへの共感が見てとれる。後に作家として立った志賀は,卓越した描写力で小動物の生き生きした生態をとらえていく。そこには野生の生命力やその荒々しさ,人間と対等の立場にたつ小動物,家族愛などが描かれており,『ウォールデン』の自然描写と幾つもの点で重なりが見られるのである。


 


2. Walden の中の fable の再考


土井 由未子


本発表の目的は、ソローがWaldenで用いた有機的な形式を調べることである。主張したい点は以下である。1. ソローは寓話を研究するかたわら、森で自然を観察した。2. ソローは文学の形式を発見した。それは寓話の形式である。3.「動物の隣人たち」の章で、身近な動物と寓話の関係を述べる際に、彼は寓話の形式で考察した。寓話の形式は、動物などの自然と人間の思想がむすびつく有機的な形式である。4. 詩文は寓話の形式で書かれている。5.ソローは自然を観察し、「事実」を科学的な観察で語った。「本当の意味」、「真実」を詩的な寓話で語った。「物事の本質」や「人間の生き方」を散文的な寓話で語った。6. 寓話の形式は古くから存在し、彼自身の考えに合う文学の形式である。


  ソローは自然と彼の思想がむすびつき、時と場所を超越する形式、アメリカの野生を表現する形式を求めた。それが寓話の発見につながった。彼は科学的な観察で「事実」を語るとともに、近代科学が見えにくくした「生命」や「象徴的な意味」、そして「物事の本質」や「人間の生き方」を寓話の形式を使って表現した。今回の発表は寓話に焦点をあて、ソローが求めた有機的な形式を以上の視点から考察する。


 


3. 現代先進国で「森の生活」を始める方法 ―日本とアメリカを中心に―


慶應義塾大学 高村 友也


現代の日本で、「森の生活」(森でなくともどこかに安く小屋を建てて暮らすこと)を始めるためには、どうすればいいか、経験を交えながらお話します。評価額の安い土地はたくさんありますが、売りに出されていることは滅多にないという土地流通事情について。建築確認や建築基準法を回避して、素人が小屋を建てるための予備知識について。少ない予算でライフラインの問題を解決してオフグリッド(独立型)とする方法について。固定費を減らして自由に暮らすための法制度上の知識について。


  アメリカで話題になっている小型住宅志向「スモールハウスムーブメント」についても触れたいと思います。脱所有や脱消費がムーブメントのキーワードになっています。「小さな家は建てるべからず」という法的・社会的圧力に対して、様々な手段を講じてミニマムな暮らしを獲得しようとする行動は、一種の市民的不服従と言えると思います。


 


4. アメリカン・ルネッサンスと翻訳研究の現在


和洋女子大学 古屋 耕平


アメリカが国家としての同一性を確立してゆく過程において、翻訳は大きな役割を果たした。独立期から19世紀にかけて、政治、歴史、科学、哲学、宗教、文学の分野では、多くの著作家が外国語に通暁し、様々な形で翻訳作業に携わっている。翻訳家たちのリストは、例えば、Benjamin Franklin, Thomas Jefferson, John Quincy Adams, James Fenimore Cooper, Washington Irvingなどの著名人を含んでいる。そして、Ralph Waldo Emerson, Margaret Fuller, Henry David Thoreau, Herman Melville, Nathaniel Hawthorne, Walt Whitmanといった、アメリカン・ルネサンス期の作家たちも、それぞれ独自の方法で、直接的あるいは間接的に、翻訳に関わっている。しかしながら、従来のアメリカ文学研究においては、翻訳の重要性はあまり注目されてこなかった。だが、近年では、transnational, transatlantic, transpacific, postcolonial, postnational, hemispheric, planetaryといった視点からの、アメリカ文学の再検討が盛んに行われ、その中で、アメリカ文学成立の過程に翻訳が果たした役割についても新たな光が当てられるようになりつつある。この翻訳の問題を考える上で、やはり過去20年ほどの間に発展した、Gayatri Chakravorty SpivakやLawrence Venutiなどによる翻訳の政治的・文化的考察が重要な理論的ツールを提供している。本発表では、以上のような文学研究の流れを概観し、近年の翻訳研究の成果の、アメリカン・ルネッサンス期の文学作品研究への応用の可能性について、歴史的・理論的な面から論じてみたい。


 


II. シンポジウム要旨


テーマ  ニューイングランドの変容とアメリカン・ルネッサンスの文学


 


1. 市場経済と創造過程――ソローとディキンスンの比較


早稲田大学 江田 孝臣


 Whitman: The Political Poet (New York: Oxford UP, 1989)で知られるBetsy Erkkilaは、Vivian R. Pollak編のA Historical Guide to Emily Dickinson (New York: Oxford UP, 2004)に寄せた論文"Dickinson and the Art of Politics" において、Dickinsonを「本質的に保守的な伝統の、すなわち、ジェファソンが大統領に選出された1800年の民主主義〈革命〉で支持を失った後期フェデラリスト的な精神と感性の機知に富む雄弁な代弁者だった」(Historical Guide 137)とし、詩を出版しなかったことについては「彼女の出版拒絶は、私的な行為ではなかった。それは、商業化され、民主化され、なおかつ、ますます雑多となり大衆化される全国市場に対する、社会的階級的な抵抗行為であった」(150)としている。


 本発表では、ErkkilaのDickinson論に依拠することによって、アメリカ資本主義(商品経済、市場経済、産業革命、帝国主義、民主主義)の発達に対するDickinsonとThoreauの反応を比較し、なかでも商品経済の発達がいかに彼らの創造過程(想像力)をめぐるヴィジョンを侵害したかを、贈与論を援用しながら論じる。


 キーワードは"telegraph"と"ice trade"。Thoreauの作品では、"Economy"と"The Pond in Winter"を、Dickinsonでは、"I' m Nobody! Who are you?" (Fr 260 / J 288), "Much Madness is divinest Sense -"(Fr 620 / J 435), "Publication - is the Auction "(Fr788/ J 709), "Some - Work for Immortality -"(Fr 536 / J 406), "The Lightning playeth – all the while - "( Fr 595 / J 630), "Myself can read the Telegrams "( Fr 1049 / J 1089)を取り上げる。


 


2. アメリカン・ルネッサンスと埋葬――エマソンを中心に


専修大学 成田 雅彦


 ローレンス・ビュエルは、現代のエマソン批評はエマソンを「非超絶主義化する」方向に向かっていると述べた。新歴史主義の出現以来、アメリカ文学を歴史化し具体的な社会変動の中に位置づけて、テキスト中に新たに発掘される様々な歴史的文脈の意味を論じるのは現代の大きな潮流である。しかし、私はエマソンをもう一度「超絶主義化」してみたい。その神秘主義が出て来るところの根を初期のエマソンに戻って考え、ニューイングランドの社会的変容というよりも、その精神的変容の生じた光景を再検討したい。手掛かりにしたいのは、「埋葬」である。アメリカン・ルネサンス文学では、ポーをはじめ埋葬を描いた作家は多く、それはあたかもこの時代に埋葬のイメージが取り憑いたかのようである。そして、その埋葬はしばし破綻する。埋葬されていたものが覆いをこじ開けて蘇るわけだが、私にはそれがこの時代の「変容」を解く重要なカギに思われる。エマソンは、埋葬のイメージを文学的に多用することはなかった。しかし、この思想家はある埋葬をいわば「生きた」のである。この発表ではエマソンの妻の埋葬のエピソードを入り口として、「主の晩餐」の説教と牧師をやめて唯心論者になっていくエマソンを精神史との関連の中で捉えなおしてみたい。


 


3.アメリカ哲学におけるソローの不在:『ウォールデン』を「高度な意味で読むこと」


京都大学 齊藤 直子


 本発表では、ソローの超越主義思想を「夜明けの哲学」(philosophy of morning) (Cavell 2005)として復権させる現代アメリカの哲学者スタンリー・カベルによる『ウォールデン』再読解の著『センス・オブ・ウォールデン』(2005/1992)の読解を試みる。これを通じて『ウォールデン』を「高度な意味で読むこと」(Reading in ahigh sense) (Thoreau 1992, p. 71)が、哲学を日常性に連れ戻す哲学の再構築の作業であり、広義の翻訳としての言語の媒介によって達成され続ける「下向きの超越」(transcendence down) (Standish 2012, p. 25)思想であることを明らかにする。それによって、ソローの超越主義を、内向性、私秘性、個人主義、自己修養、自然賛美、文明批判、環境主義などの観点から読み解く言説から解放し、単独性と隣人性に依拠した広義の政治生活を実践する哲学、そして「アンコモンスクール」における「大人の教育しての哲学」(philosophy as the education of grownups) (Saito and Standish 2012)としてとらえ直す。


 


Cavell, Stanley. 2005. Philosophy the Day After Tomorrow (Cambridge, MA: The Belknap Press of Harvard University Press).


カベル、スタンリー (2005)『センス・オブ・ウォールデン』(斉藤直子訳)(法政大学出版局)(Stanley Cavell, The Senses of Walden [Chicago: The University of Chicago Press, 1992.])


Saito, Naoko and Standish, Paul (eds). 2012. Stanley Cavell and the Education of Grownups (New York: Fordham University Press).


Standish, Paul. 2012. “Pure Experience and Transcendence Down.” In Education and


the Kyoto School of Philosophy: Pedagogy for Human Transformation (eds) Paul Standish and Naoko Saito (Dordrecht: Springer, 2012).


Thoreau, Henry, D. 1992. Walden and Resistance to Civil Government, ed. William Rossi (New York: W. W. Norton & Company, 1992).


 


III.  特別講演要旨


演題  ソローとの対話が拓いた道: keeping“the polestar”in my eye


名古屋工業大学 藤岡 伸子


  ソローの文学的世界には、17世紀西ヨーロッパに発する近代主義といかに的確に対峙し、またいかにそれを乗り越えて次のフェーズに至りうるのかという、近年ますます切実に現代社会の関心を惹きつける一つの問いが、堅い核として存在する。


  ソローの世界が核として持つこの問題意識と、比較文化研究者としての私自身との長年にわたる対話は、ソロー研究とは何の関わりもないように見える領域にも私の研究を大きく越境させてきた。そうした越境は言うまでもなく、ソローが厳然と指し示す先へと、おずおずと向かった結果である。その先には、例えば、アーツアンドクラフツ運動のウィリアム・モリスや民藝運動の柳宗悦、日本アルプスの生みの親・小島烏水などがおり、ソローを離れて出会ったはずの彼らもまた、時にソローの名を口にする人々であったことをやがて知ることになる。こうして得た「文化研究の広野でソローをめぐる遍路を続けてきた」という感覚は、個人的なものでもあるが、学術的な検証にも十分に耐え、ソロー研究に新しい視点を提供し得るものではないかと考えている。ソローが提示した世界観の広がりや奥行きを、このような比較文化研究の視点から改めて俯瞰してみたいと思う。

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